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黒田長知(くろだながとも)

筑前福岡藩主[日本]

1902年 1月7日 死去享年64歳

黒田長知 - ウィキペディアより引用

黒田 長知(くろだ ながとも)は、筑前国福岡藩の第12代藩主、初代知藩事。
生涯= 天保9年12月19日(1839年2月2日)、伊勢国津藩藩主・藤堂高猷の二男として、江戸柳原藤堂藩邸にて生まれる。
母は橋本氏(妙貞院。
橋本清娯の娘)。
幼名は健若。
のち高望と名乗る。
嘉永元年(1848年)11月21日、第11代福岡藩主・黒田斉溥の養子となり、長知と改名し、同2年(1849年)2月、官兵衛と称す。
嘉永5年(1852年)11月15日、将軍徳川家慶に御目見得する。
同年12月19日、家慶の前で元服、松平姓と家慶の偏諱を与えられ松平慶賛と名乗った。
また、下野守従四位下侍従に叙任される。
幕末期の動乱の中では、親長州藩的な人物で、禁門の変などにおける長州藩の苦境に際し、朝廷や幕府に対して長州藩の赦免を求めている。
明治2年(1869年)2月5日、斉溥(改め長溥)の隠居により家督を継ぎ、同年6月の版籍奉還により知藩事となった。
この頃に名を長知と改めている。
明治4年(1871年7月2日)、当主となった2年後、戊辰戦争出兵による財政難から藩当局が太政官札・二分金などを贋造して北海道で物資買い付けを行っていたことが発覚した(太政官札贋造事件)。
この責任により知藩事を罷免・閉門処分となった。
後任の知藩事には、長男の長成ではなく有栖川宮熾仁親王が就任したが、廃藩置県まで12日という短さであった。
同年、東京へ移住するため、8月13日に家族とともに福岡を出帆し ……

黒田長知が亡くなってから、122年と318日が経過しました。(44879日)