宮城道雄(みやぎみちお)
作曲家、箏曲家[日本]
1956年 6月25日 死去転落享年63歳
宮城 道雄(みやぎ みちお、1894年〈明治27年〉4月7日 - 1956年〈昭和31年〉6月25日)は、日本の作曲家・箏曲家である。
兵庫県神戸市生まれ。
旧姓は菅(すが)。
十七絃の開発者としても知られる。
大検校であったため、広く『宮城検校』と呼ばれた。
『雨の念仏』(1935年)などの随筆により文筆家としての評価も高い。
作家の内田百閒とは親友同士であり、交友も深く、双方の随筆でたびたび言及していた。
略歴=
1894年(明治27年)に菅国治郎とアサの長男として兵庫県神戸市三宮(現在の同市中央区)の居留地内で生まれる。
父親は広島県沼隈郡鞆町(現在の福山市)の出身で分部氏の次男、母親も同県安佐郡祇園町(現在の広島市安佐南区)出身である。
生後200日頃から眼病を患い、また4歳の頃に母と離別して祖母ミネのもとで育てられた。
7歳の頃に失明した。
以降、生涯において咽頭炎など発病の際に折に触れて眼痛を訴えることがあったが、この失明が転機となり音楽の道を志す。
8歳で生田流箏曲の二代菊仲検校に師事するも、その後兄弟子菊西繁樹の紹介により二代中島検校に師事した。
2年後に師匠が病没したため、以降は三代中島検校に師事し11歳で免許皆伝となる。
師匠から「中島」の「中」の字をもらい受け、中菅道雄と名乗った。
13歳の夏、一家の収入を支えるため父の滞在する朝鮮の仁川へ渡り、昼間は箏、夜間は尺八を教えて家計を助けた。
道 ……
宮城道雄が亡くなってから、68年と149日が経過しました。(24986日)