芸能人・経営者のおくやみ情報

仰木彬 氏(おおぎあきら)

プロ野球選手、監督[日本]

2005年 12月15日 死去肺がん享年71歳

仰木彬 - ウィキペディアより引用

仰木 彬(おおぎ あきら、1935年4月29日 - 2005年12月15日)は、福岡県出身のプロ野球選手、プロ野球監督、野球解説者。
昭和30年代の西鉄ライオンズ黄金時代に正二塁手として活躍し、引退後は西鉄、近鉄、オリックスのコーチ・監督を歴任した。
特に1980年代から90年代にかけて、10.19と呼ばれた名勝負や、阪神・淡路大震災後に『がんばろうKOBE』を合言葉に快進撃を果たし、率いたチームを11年連続でAクラス入りさせたことで知られる。
血液型はA型。
経歴[編集] プロ入り前[編集] 教員の両親を持つ。
父親は太平洋戦争にて1944年2月に戦死し、母の手一つで育てられた。
2人いた妹も病気で亡くしたため、「八幡製鉄に就職して母を安心させたい」と、工業高校への進学を希望していた。
しかし中学野球部での活躍に目をつけた東筑高校OBの説得により、同校全日制商業科に進学し、投手、四番打者として活躍する。
1952年の秋季九州大会県予選準決勝では、小倉高の石田泰三に抑えられ敗退したが、翌1953年夏の甲子園県予選では準決勝で小倉高の石田に投げ勝ち、決勝ではエース・中島孝司(のち南海)を擁する戸畑高に2-1で勝利し、夏の甲子園への初出場を決める。
甲子園では2回戦(初戦)で片岡宏雄捕手のいた浪商に0-3で完封負けしている。
現役時代[編集] 南海ホークス、中日ドラゴンズ、西鉄ライオンズの3球団から誘われた。
甲子園出場時に練習した大阪スタヂアムで南海の選手を見て憧れ ……

推定関連画像

仰木彬さんが亡くなってから、18年と224日が経ちました。(6799日)