戸田忠太夫(とだちゅうだゆう)
水戸藩士・家老[日本]
(安政2年10月2日没)
1855年 11月11日 死去圧死享年52歳
戸田 忠太夫(とだ ちゅうだゆう)は、日本の幕末(江戸時代・幕末)における水戸藩家老で、尊王派の志士として知られる。
水戸戸田家第7代当主。
家老職拝命の際、主君・徳川斉昭より忠太夫の仮名を与えられる。
諱から戸田忠敞、号から戸田蓬軒と呼ばれることも多い。
系譜=
戸田氏は三河譜代の名門の家系であり、忠太夫は戸田氏(仁連木戸田家)の支流[* 1]で水戸藩に仕えた戸田有信[* 2]の後裔にして水戸藩の世臣であった戸田三衛門忠之の嫡男として生まれる。
母は安島七郎左門衛門信可の女。
歴代の知行は代々1300石。
家紋は六曜。
生涯=
文化10年(1813年)、家督を継いで200石小普請組となる。
文政3年(1820年)には大番組頭、文政11年(1828年)には目付となる。
その頃、水戸藩に継嗣争いが起こり、徳川将軍家より養子を擁立しようとする一派に対抗し、中下士層を率いて聡明と聞こえる水戸藩第7代藩主・徳川治紀の三男である敬三郎を擁立する。
これによって敬三郎が跡目(家督の後継者)となり、徳川斉昭となる。
斉昭が水戸藩主になると、忠太夫は藤田東湖とともに斉昭を支えることとなる。
戸田忠太夫と藤田東湖は世に「水戸の両田(みとのりょうでん)」と称され[* 3]、尊王の志と学識を具えた優れた指導者として知られるようになった。
水戸の両田に武田耕雲斎を加えて「水戸の三田」とも称される[* 4]。
天保元年(1830年)には藩内争 ……
戸田忠太夫が亡くなってから、169年と10日が経過しました。(61737日)