大橋訥庵(おおはしとつあん)
儒学者[日本]
(文久2年7月12日没)
1862年 8月7日 死去享年47歳
大橋 訥庵(おおはし とつあん、文化13年〈1816年〉 - 文久2年7月12日〈1862年8月7日〉)は、江戸時代後期の儒学者、尊王論者。
諱は正順、通称は順蔵、字は周道、訥庵は号で「とっつあん(父っつあん)」の言葉に洒落て漢字を宛てたもの。
坂下門外の変を計画した人物であり、幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を及ぼした。
生涯=
生い立ち=
文化13年(1816年)、長沼流兵学者の清水赤城の四男として生まれる。
当初、母方の親族である信濃飯山藩士の酒井力蔵の養子となるが後に離縁している。
天保6年(1835年)、儒学者の佐藤一斎に師事する。
天保12年(1841年)、江戸日本橋の豪商佐野屋大橋淡雅の娘巻子と結婚し大橋姓を名乗る。
同年、日本橋において思誠塾を開き、子弟に儒学を指導する。
訥庵による指導は好評で、嘉永3年(1850年)には下野宇都宮藩主・戸田忠温の招きにより、月1回江戸藩邸において儒学を教授した。
攘夷論への傾倒=
嘉永6年(1853年)の黒船来航以降、訥庵の尊王攘夷論は過激になっていく。
外夷を打ち払うことを幕府に建言し、全国的に注目されるようになった。
嘉永6年10月、徳川斉昭に「隣疝臆議」を送り、攘夷の所論の実行を迫る。
安政3年(1856年)には思誠塾を小梅村(現在の東京都墨田区向島)へ移転した。
これは前年の安政の大地震により塾が倒壊したためである。
安政4年(1857年)には『闢邪小言』を刊行し、この中で朱子学の立場から西洋文明を厳し ……
大橋訥庵が亡くなってから、162年と105日が経過しました。(59276日)