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嶋田繁太郎(しまだしげたろう)

海軍大将、政治家[日本]

1976年 6月7日 死去享年94歳

嶋田繁太郎 - ウィキペディアより引用

嶋田 繁太郎(しまだ しげたろう、1883年〈明治16年〉9月24日 - 1976年〈昭和51年〉6月7日)は、日本の海軍軍人、政治家。
海軍大将正三位勲一等功二級。
海兵32期・海大13期。
海軍大臣(第22代)。
軍令部総長(第17代)。
A級戦犯として終身刑。
生涯= 1883年(明治16年)9月24日、東京府に旧幕臣で神官の嶋田命周の長男として生まれる。
実家が神官の家系であることから敬神家であり、毎朝の神社参拝を日課とし、日々の職務を規則正しくこなす、他の軍人に見られるような我の強さが無い、酒も飲まない、政財界との付き合いも一切無い、といった質素で非常に生真面目な人柄だったとも言われる。
東京中学を経て、1904年(明治37年)海軍兵学校32期を191人中27番の成績で卒業。
同期に山本五十六・吉田善吾・塩沢幸一・堀悌吉らがいる。
日露戦争に出征し、日本海海戦では防護巡洋艦「和泉」に乗り組んで偵察活動に従事する。
1910年(明治43年)、海軍大学校乙種に進み、1915年(大正4年)に海大甲種13期を卒業し少佐に昇進。
1916年(大正5年)より3年間イタリア駐在武官を務める。
1923年(大正12年)より海軍大学校教官を務め、1926年(大正15年)には第七潜水戦隊司令に就任。
1927年(昭和2年)に起こった美保関事件では、軍法会議で、被告となった同期生・水城圭次の特別弁護人となり、井上継松とともに責任は耳に障害のある水城を艦長に補職した海軍当局にあると論陣を張った。
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嶋田繁太郎が亡くなってから、48年と124日が経過しました。(17656日)

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