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鰭崎英朋(ひれざきえいほう)

浮世絵師日本画家[日本]

1968年 11月22日 死去享年89歳

鰭崎英朋 - ウィキペディアより引用

鰭崎 英朋(ひれざき えいほう、明治13年(1880年)3月29日 - 昭和43年(1968年)11月22日)は明治時代から昭和時代にかけての浮世絵師、挿絵画家、日本画家。
鰭崎英朋 1915年 来歴= 右田年英及び川端玉章の門人。
号は英朋、別号に絢堂、晋司。
本名は太郎。
明治13年、東京市京橋区入船町3丁目(現:中央区入船2丁目)に生まれた。
父親は小枝(さえだ)という姓で、京都出身の飾り職人であったがすでに行方不明だった。
母のラクは当時16歳で、女性一人で英朋を育てることは不可能であり、英朋を自分の父母である斉藤与八とヨシに託し、他家に嫁いでいった。
「鰭崎」という珍しい姓は、画姓ではなくこの祖母ヨシの姓である。
その昔、先祖が源頼朝にご馳走を振る舞った所、頼朝の喉に魚の骨が刺さり、「鰭が刺さった」ことに由来するという。
明治21年(1888年)4月、築地明教学校に入学した。
明治25年(1892年)12歳で日本橋区蛎殻町2丁目1番地(現:中央区日本橋蛎殻町)の履物商、竹下嘉三郎のところに7年間の丁稚奉公に上がり、真面目な仕事ぶりから奉公先で可愛がられ、早くも16歳で番頭を任される。
明治30年(1897年)17歳のある時、主家の子供たちと絵を描いて遊んでいると、主人が英朋に「絵描きになりたいか?」と聞かれ、即座に「はい!」と答えたという。
そこで主人は、知人を通じて英朋を右田年英に紹介し、残っていた2年の年期も免除している。
右田年英は、浮世絵 ……

鰭崎英朋が亡くなってから、55年と364日が経過しました。(20453日)

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