立原道造(たちはらみちぞう)
詩人[日本]
1939年 3月29日 死去結核享年26歳
立原 道造(たちはら みちぞう、1914年〈大正3年〉7月30日 - 1939年〈昭和14年〉3月29日)は、昭和初期に活躍し、24歳8か月で急逝した日本の詩人。
建築家としての足跡も残した。
別筆名(旧制一高時代の短歌投稿時に使用)に、三木祥彦・山木祥彦がある。
東京帝国大学工学部建築学科卒業、学位(当時は称号)は工学士(東京帝国大学)。
東大建築学科在学中の3年間、同学科より辰野賞を連続受賞、詩作では1938年に中原中也賞を受賞。
東京都中央区に生まれた。
東京府立三中で芥川以来の秀才と称された。
一高在学中に三中の先輩でもある堀辰雄を知り、また室生犀星に師事。
東大在学中の夏に、信濃追分に滞在、土地の旧家の孫娘に恋をする。
詩誌「四季」に、追分での「村ぐらし」を載せる。
立原は翌年も追分を訪れ、恋心は続いた。
だがその翌年、娘は他家へ嫁いでしまった。
この短い青春が終わると同時に体調を崩し、24歳で死去。
生涯=
1914年(大正3年)、立原貞治郎、とめ夫妻の次男として日本橋区橘町(現:中央区東日本橋)に生まれる。
家では荷造用木箱製造を営んでいた。
1919年(大正8年)、貞治郎が亡くなり、5歳で立原家の家督を継ぐ。
1927年(昭和2年)、13歳の折、北原白秋を訪問するなど、既に詩作への造詣を持っていた。
同年、口語自由律短歌を『學友會誌』に発表、自選の歌集である『葛飾集』『両國閑吟集』、詩集『水晶簾』をまとめるなど13歳にし ……
立原道造が亡くなってから、85年と201日が経過しました。(31247日)