大槻玄沢(おおつきげんたく)
蘭学者[日本]
(諱・茂質、号・磐水、文政10年3月30日没)
1827年 4月25日 死去享年71歳
大槻 玄沢(おおつき げんたく、宝暦7年9月28日(1757年11月9日)- 文政10年3月30日(1827年4月25日))は、一関藩出身の江戸時代後期の蘭学者。
諱は茂質(しげかた)、字は子煥(しかん)。
出身地の磐井川から磐水(ばんすい)と号す。
『解体新書』の翻訳で有名な杉田玄白・前野良沢の弟子。
「玄沢」とは、師である2人から一文字ずつもらってつけた通り名である。
生涯=
一関藩の医師でのちに藩医となった大槻玄梁の長子として陸奥国磐井郡中里に生まれる。
玄沢9歳の時、オランダ流外科の開業医であった父が藩医となり、翌年一関に転居する。
13歳の時、同じ郷里の医師建部清庵に師事し、早くから医学・語学に才能を示した。
安永7年(1778年)、22歳の時、江戸への遊学を許されて、清庵と手紙のやり取りをしていた杉田玄白の私塾・天真楼に学び、医術を修めるかたわら、前野良沢にオランダ語を学んだ。
安永9年(1780年)には、良沢のもとを訪れた仙台藩江戸詰の藩医工藤平助と知り合った。
玄沢の遊学期間が終わりに近づいていることを師の良沢が惜しんでいることを知った工藤平助は、藩主田村村隆に遊学延長を願い、その結果期間が天明4年(1784年)まで2年延長され、玄沢の学問は大いに進展したといわれている。
28歳になったこの年、父が死去し家督を継ぐことになった。
翌天明5年(1785年)10月、玄沢は長崎遊学を許され、江戸・大阪を経て長崎に到着した。
その地でオラ ……
大槻玄沢が亡くなってから、197年と223日が経過しました。(72177日)