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脇坂安元(わきざかやすもと)

信濃飯田・播磨龍野 藩主[日本]

(承応2年12月3日没)

1654年 1月21日 死去享年70歳

脇坂安元 - ウィキペディアより引用

脇坂 安元(わきざか やすもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名・歌人。
伊予国大洲藩2代藩主、のち信濃国飯田藩初代藩主。
播磨国龍野藩脇坂家2代。
当時の将軍徳川家光の信任が厚い下総国佐倉藩主・堀田正盛の次男・安政を養子とすることを願い出て許されたことにより、外様の小藩であった脇坂家は譜代大名となることができた。
なお、安元は2代・安政より以前に、実弟・安経、次いで堀田正盛の弟・安利を養子としていたが、いずれも早世した。
生涯[編集] 天正12年(1584年)3月4日、脇坂安治の次男として山城国で生まれる。
兄・安忠が若くして病没したために嫡子となり、慶長3年(1598年)に大坂にて徳川家康に謁見した。
慶長5年(1600年)に豊臣姓を授けられ、従五位下、淡路守に叙任されている。
慶長5年(1600年)の会津征伐では、父親の安治は大坂に留まり、安元は関東に下向し徳川方に参陣しようとしたが、安元は関東へ向かう途中で、家康に対抗して挙兵した石田三成に遮られて已む無く、近江から大坂に戻ることになった。
安元は家康に同行していた山岡景友に書状を送って事情を説明し、家康に味方する所存であることを伝えた。家康から安元に返書が届き、安元の家康に対する忠節への謝意と、近いうちに上方へ向かう旨が記されていた(慶長5年8月1日 脇坂安元宛 徳川家康書状)。
安治が大坂に滞在していたときに石田三成が挙兵したため、やむ ……

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脇坂安元が亡くなってから、370年と184日が経過しました。(135327日)