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安達謙蔵(あだちけんぞう)

政治家[日本]

1948年 8月2日 死去享年85歳

安達謙蔵 - ウィキペディアより引用

安達 謙蔵(あだち けんぞう、旧字体:安達󠄁 謙󠄁藏、1864年11月22日(元治元年10月23日) - 1948年(昭和23年)8月2日)は、大正時代から昭和時代初期の日本の政党政治家。
位階は従三位。
号は漢城。
日本の二大政党の雄であった立憲民政党の幹部であったが、第2次若槻内閣が機能不全に陥った時に立憲政友会との大連立工作を仕掛けたことにより、若槻内閣の崩壊、ひいては憲政の常道の放棄、日本の敗戦の遠因を作ることとなった。
来歴= 国士として= 熊本藩士・安達二平の長男として生まれる。
のち佐々友房が熊本市に設立した学校・済々黌で学ぶ。
1894年(明治27年)、朝鮮国で東学党の乱が勃発すると佐々友房の指示で朝鮮半島に渡る。
宝田釜山総領事の薦めで邦字新聞『朝鮮時報』、井上馨公使の協力で諺文新聞『漢城新報』を発行。
社長兼新聞記者として日清戦争にも従軍した。
井上に代わり駐韓公使となった三浦梧楼の朝鮮王妃閔妃殺害計画に参加し、1895年(明治28年)、在韓の熊本県出身者を率いて乙未事変を実行。
中心メンバーとして投獄されるがその後釈放される。
選挙の神様= 1926年(大正15年)頃 熊本に戻ると佐々友房とともに熊本国権党を結党、1896年(明治29年)に党務理事に就任。
1902年(明治35年)の第7回総選挙で初当選して政治の世界に足を踏み入れ、以後14回連続当選する。
1914年(大正3年)第2次大隈内閣が実施した第12回総選挙で与党立憲同志会の ……

安達謙蔵が亡くなってから、76年と111日が経過しました。(27870日)