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細川重賢(ほそかわしげかた)

肥後熊本藩藩主[日本]

(天明5年10月26日没)

1785年 11月27日 死去享年65歳

細川重賢 - ウィキペディアより引用

細川 重賢(ほそかわ しげかた)は、江戸時代中期の大名。
肥後国熊本藩6代藩主。
熊本藩細川家7代。
紀州藩第9代藩主・徳川治貞と「紀州の麒麟、肥後の鳳凰」と並び賞された名君であった。
始めは父・細川宣紀より1字を与えられて長岡紀雄(ながおか のりお)、兄・宗孝の跡を継いでからは細川重賢と名乗る。
改名後の「重」の字は9代将軍徳川家重より偏諱を授かったもので、「賢」の字はかつて細川典厩家が通字として用いていたものに由来する(実際、典厩家の当主にも同名の細川重賢という人物がいた)。
生涯[編集] 家督相続[編集] 享保5年12月26日(新暦1721年1月23日)、4代藩主・細川宣紀の五男として誕生。
享保17年(1732年)、父・宣紀が死去すると、兄・宗孝が跡を継ぐ。
宣紀の時に既に40万両近い借財を抱え、宗孝の時代には大藩故の過度な出費、宗孝治世のほとんどを襲った凶作などにより収入は激減し、藩財政は転げるように落ち込んでいく。
当時の熊本藩の困窮ぶりは「鍋釜の金気を落とすに水はいらぬ。
細川と書いた紙を貼ればよい」と揶揄されるほどであった。
「寛保二年江戸洪水#西国大名の手伝い普請」も参照 重賢も、部屋住み時代には質屋に通ったと言われるほどで、この時の質札を生涯手元に置いておいたという逸話が残っている。
延享4年(1747年)8月15日、江戸城本丸大広間において、兄・宗孝が旗本板倉勝該に背後から襲われるという事件が発生する。
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細川重賢が亡くなってから、238年と240日が経過しました。(87170日)