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細川宗孝(ほそかわむねたか)

肥後熊本藩主[日本]

(旗本・板倉勝該に斬りつけられ死亡、延享4年8月15日没)

1747年 9月19日 死去斬死享年32歳

細川宗孝 - ウィキペディアより引用

細川 宗孝(ほそかわ むねたか)は、江戸時代中期の大名。
肥後国熊本藩5代藩主。
熊本藩細川家6代当主。
官位は従四位下・侍従、越中守。
院号は隆徳院。
生涯[編集] 4代藩主・細川宣紀の四男で、6代藩主・細川重賢の兄にあたる。
幼名は六丸、初名は紀逵(のりみち)または紀達(のりたつ)。
また、初めは長岡姓であったが、兄たちが夭折したために嫡男となり、細川に改姓した。
正室は紀州藩6代藩主・徳川宗直の娘・友姫。
享保17年(1732年)、父・宣紀の死去に伴い17歳で家督を相続、まもなく8代将軍・徳川吉宗(元・紀州藩5代藩主)より偏諱を受け、宗孝(「孝」は祖先の細川藤孝(幽斎)より1字を取ったものであろう)と改名した。
当時の熊本藩は、父・宣紀の時代から洪水・飢饉・旱魃などの天災に悩まされて、出費が著しいものとなっていた。
また、宗孝が藩主となった翌年には参勤交代に使用される大船・「波奈之丸」の建造費、さらには洪水・飢饉・疫病などの天災が起こり、その治世は多難を極めた。
「寛保二年江戸洪水#西国大名の手伝い普請」も参照 江戸城で斬殺[編集] 延享4年(1747年)8月15日、月例拝賀式のため登城し、大広間脇の厠に立った際、乱心した旗本寄合席の板倉勝該に突然背後から斬りつけられ、まもなく絶命した。
享年32。
これにより、細川家は窮地に陥った。
32歳になったばかりの宗孝にはまだ子がおらず、養子も立てていなかったのであ ……

推定関連画像

細川宗孝が亡くなってから、276年と310日が経過しました。(101119日)