仁礼功太郎 氏(にれこうたろう)
俳優[日本]
(旧名義・市川若三郎)
1998年 9月13日 死去享年98歳
仁礼 功太郎(にれ こうたろう、1901年12月5日 - 1998年9月13日)は、日本の俳優である。
本名渡辺 銀次郎(わたなべ ぎんじろう)。
旧芸名市川 若三郎(いちかわ じゃくさぶろう)、春日 陽二郎(かすが ようじろう)。
人物・来歴=
1901年(明治34年)12月5日、東京府東京市本所区東駒形(現在の東京都墨田区東駒形)の左官業の家の長男(3男1女)として生まれる。
1914年(大正3年)3月、東京市本所区横川尋常小学校(現在の墨田区立横川小学校)を卒業する。
1919年(大正8年)8月、市川九蔵(のちの九代目市川團蔵)[信頼性要検証]門下の市川若猿の内弟子になり、「市川 若三郎」を名乗る。
同年、浅草「みくに座」で初舞台を踏んでいる。
1922年(大正11年)には兵役を務め、除隊後は嵐雛升の旅一座に参加し、地方を巡業する。
市川九蔵の一門に復帰するのは、1927年(昭和2年)5月のことであった。
同年、奈良県にある市川右太衛門プロダクション(あやめ池撮影所)に入社し、「春日 陽二郎」と改名、同年4月29日に公開された押本七之助監督の『侠骨漢 笑ふな金平』で映画界にデビューした[出典無効]。
翌1928年(昭和3年)3月、同社の女優であった大町麗子と結婚した[出典無効]。
1929年(昭和4年)7月5日公開、伊藤大輔監督の『一殺多生剣』にも出演している。
同社で、市川芳之助こと沢田清と出逢う。
1931年(昭和6年)、日活太秦撮影所に入社、当初は「春日陽二郎」 ……
仁礼功太郎さんが亡くなってから、26年と69日が経ちました。(9566日)