本庄繁長(ほんじょうしげなが)
戦国武将[日本]
(慶長18年12月20日没)
1614年 1月29日 死去享年75歳
本庄 繁長(ほんじょう しげなが)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。
上杉氏の重臣。
揚北衆の一人。
越後岩船郡小泉庄の本庄城主。
上杉氏の会津転封後は守山城と福島城の城代を務めた。
本庄房長の子。
母は揚北衆の鮎川清長の室と姉妹関係にあったとみられている。
生涯=
天文8年(1540年)、越後国の国人・本庄房長の子として誕生。
幼名は千代猪丸。
繁長が生まれる直前、父・房長は同族の色部氏と共に、越後守護・上杉定実が伊達稙宗の子・時宗丸を養子に迎えることに異を唱え、入嗣推進派の中条藤資らと対立した。
伊達氏の支援を受けた中条氏に攻められた房長は、弟・小川長資と同族・鮎川清長の勧めにより、本庄氏と盟友関係にある出羽国庄内地方の武藤氏のもとに逃れた。
しかしこれは長資の罠であり、その隙に長資によって居城を奪われてしまう。
弟の謀反に衝撃を受けた房長は病に倒れそのまま死去した。
房長を失った本庄氏の家臣団は遺児・千代猪丸を当主に立てたものの、幼少の千代猪丸に政が出来るわけでもなく長資をその後見人として認めざるを得ず、本庄氏の実権は長資の手に落ちた。
現存する史料から千代猪丸は叔父の本庄盛長や本庄家臣団の中心的人物であった矢羽幾長南の後見の下で幼年期を送っていたとみられる。
しかし、天文20年(1551年)父の13回忌の法要が開かれた耕雲寺で千代猪丸は長資を捕えて自害に追い込み、実権を取 ……
本庄繁長が亡くなってから、410年と293日が経過しました。(150046日)