成田為三(なりたためぞう)
作曲家[日本]
1945年 10月29日 死去脳溢血享年53歳
成田 為三(なりた ためぞう、1893年(明治26年)12月15日 - 1945年(昭和20年)10月29日)は、秋田県出身の日本の作曲家 、教育者。
東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)教授。
生涯=
秋田県北秋田郡米内沢町(現在の北秋田市米内沢)にて、役場職員の息子として生まれる。
1909年(明治42年)、鷹巣准(準の古字)教員準備場を卒業、秋田県師範学校に入学。
1913年(大正2年)に同校を卒業後、鹿角郡毛馬内町(現、鹿角市十和田)の毛馬内小学校で教鞭を一年間執る。
1914年(大正3年)、上野にある東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入学。
在学中、ドイツから帰国したばかりだった在野の山田耕筰に教えを受けた。
1916年(大正5年)頃、「はまべ(浜辺の歌)」を作曲している。
1917年(大正6年)に同校を卒業。
卒業後は九州の佐賀県師範学校の義務教生をつとめたが、作曲活動を続けるため東京市の赤坂小学校の訓導となる。
同時期に『赤い鳥』の主宰者鈴木三重吉と交流するようになり、同誌に多くの作品を発表する。
1922年(大正11年)にドイツのベルリンに留学。
留学中は当時ドイツ作曲界の元老と言われるロベルト・カーン(ドイツ語版)に和声学、対位法、作曲法を、カール・ハインリヒ・バルトにピアノを師事したほか、指揮法も習得した。
1926年(大正15年)に帰国後、身に付けた対位法の技術をもとにした理論書などを著すとともに、当時の日本にはなかった初等音楽教育 ……
成田為三が亡くなってから、79年と23日が経過しました。(28878日)