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福田晴一 氏(ふくだせいいち)

映画監督脚本家[日本]

(別名義・船橋一)

1996年 5月11日 死去呼吸不全享年81歳

福田 晴一(ふくだ せいいち、1916年8月16日 - 1996年5月11日)は、日本の映画監督、脚本家である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14][15]。
別名船橋 一(ふなばし はじめ)[4][8][9][11][12]。
1939年(昭和14年)6月、日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に入社、内田吐夢に師事し、内田とともに興亜映画、松竹京都撮影所と移る[1][5]。
第二次世界大戦に出征した時期を挟んで同撮影所で助監督を務め、1954年(昭和29年)に監督昇進、「伝七捕物帳シリーズ」「二等兵物語シリーズ」のほとんどの作品を手がける[1][5][9][10][12]。
1962年(昭和37年)に退社後は、黎明期の成人映画を量産し、台湾映画・インドネシア映画も手がけた[1][5][8][9][12]。
人物・来歴= 1916年(大正5年)8月16日、東京府南足立郡千住町本町(現在の東京都足立区千住)に生まれる[1][5][6][10][11][13]。
同地は、明治時代に開業した北千住駅の西口駅前に位置し、福田の幼少時から青年期にかけて、周囲には複数の映画館が存在した[16]。
幼少時から映画界に憧れ[1]、旧制・蔵前高等工業学校(現在の東京工業大学)建築科在学中、1935年(昭和10年)5月に日本で公開された『外人部隊』の監督ジャック・フェデーに憧れ、映画界入りへの思いを抱いたという[5]。
1937年(昭和12年)3月、同校を卒業、1939年(昭和14年)6月、日活多摩川撮影所に入社する[1][5]。
内田吐夢、島耕二らに助監督として師事していたが、1941年(昭和16年)に全勝キネマを松竹 ……

福田晴一さんが亡くなってから、29年と51日が経ちました。(10643日)

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