大下弘(おおしたひろし)
元プロ野球選手、元監督[日本]
(「青バット」)
1979年 5月23日 死去睡眠薬自殺享年58歳
大下 弘(おおした ひろし、1922年(大正11年)12月15日 - 1979年(昭和54年)5月23日)は、兵庫県神戸市三宮(現・中央区三宮)出身のプロ野球選手(外野手)・コーチ・監督、解説者・評論家。
愛称は、打球を簡単にポンポン飛ばすことから「ポンちゃん」。
青バットの大下として、赤バットの川上哲治、物干し竿の藤村富美男と共に終戦直後の日本球界を代表する存在であった。
特に少年達からの人気は絶大であり、美空ひばりと並ぶ終戦直後の日本における国民的スターであった。
経歴=
プロ入り前=
父は3歳の時に亡くなり、小料理店を営む母に女手一つで育てられる。
1930年に大下は神戸小学校に入学。
家庭の事情から非進学クラスに入ったが、1年生の時から常に級長か副級長に選ばれていた。
4年生の時に体育教師の勧めで軟式野球を始めるが、グラブを買って欲しいと母親に言い出せず、友人の母親が厚い布地で作った手作りのグラブを使っていたという。
1935年に中宮高等小学校に進学すると、下級生を集めて軟式野球チームを作って野球を楽しんだが、長身だったためポジションは一塁手だった。
1936年に先に移住していた母を頼って台湾・高雄市へ移り、高雄第二小学校高等科に転入。
1937年に新設された高雄商業学校(現・高雄市立高雄高級商業職業学校(中国語版))へ入学するが、入学試験の成績がトップだったため、新入生代表として式典で答辞を読んだ。
高雄商業に入学すると ……
大下弘が亡くなってから、45年と183日が経過しました。(16619日)