高倉照幸 氏(たかくらてるゆき)
元プロ野球選手[日本]
(西鉄の黄金期に外野手として活躍)
2018年 2月12日 死去病気享年85歳
高倉 照幸(たかくら てるゆき、1934年12月8日 - 2018年2月12日)は、福岡県北九州市出身のプロ野球選手(外野手)・解説者・評論家。
経歴=
福岡県北九州市で生まれ、戦時中に熊本県熊本市へ疎開。
父が鉄工所を経営していたこともあり、高倉は熊本工業高校を志望したが、願書を出しに行くも2時間前に締め切られていた。
高倉は落胆もせず、「それなら…」というわけで、熊本商業高校に切り替えてしまった。
1951年に中堅手として春の選抜に出場。
1回戦で浜田高を降すが、準々決勝となった2回戦では、この大会に準優勝した鳴尾高の中田昌宏投手に抑えられ敗退。
しかしこの大会唯一の本塁打を放ち注目される。
1952年はエースとして活躍するが甲子園には届かなかった。
高校同期に坂本盛明がいる。
卒業時に巨人・阪神・西鉄の勧誘を受けた。
1953年に地元の西鉄ライオンズに入団。
1954年には胸部疾患で欠場した塚本悦郎に替わって、強肩俊足を活かしてレギュラー中堅手となり、球団史上初のリーグ優勝に貢献。
強肩で同期の豊田泰光からは「バカ肩」と評価されている。
当時毎日のエースであった荒巻淳を打ち崩したことをきっかけにサウスポーを得意とし、左殺しとも呼ばれた。
同年の中日との日本シリーズでは、前半5試合に中堅手として先発するが18打数4安打に終わった。
1955年には33盗塁の記録を残す。
1956年には35盗塁とチーム最多の数字を残している。
1957年か ……
高倉照幸さんが亡くなってから、6年と282日が経ちました。(2474日)