長久保赤水(ながくぼせきすい)
地理学者、漢学者[日本]
(享和元年7月23日没)
1801年 8月31日 死去享年85歳
長久保 赤水(ながくぼ せきすい、本名:玄珠(はるたか)は江戸時代中期の地理学者、儒学者、『改正日本輿地路程全図』(通称「赤水図」)を作成したことで知られる。
常陸国多賀郡赤浜村(現在の茨城県高萩市)出身。
俗名は源五兵衛(げんごべえ)、号の赤水と字の玄珠は荘子の天地篇にある「黄帝、赤水の北に遊び、崑崙の丘に登り、而して南望して還帰し、其の玄珠を遺せり。
」から取られている。
別名は藤八 (とうはち)。
茨城県は価値の高い学術資料として、2017年(平成29年)1月26日に「長久保赤水関係資料693点」を有形文化財に定める。
2020年(令和2年)9月30日、長久保の地図や資料群107点は史料として学術的価値が認められ、国の重要文化財に指定された。
高萩市歴史民俗資料館が管理する。
東日本大震災の翌年にあたる2012年11月3日、高萩駅前に赤水の銅像が建立された。
略歴=
農民出身であるが、遠祖の大友親頼の三男・長久保親政は、現在の静岡県駿東郡長泉町を領して長久保城主となり、長久保氏を称したとされる。
学問を好み地理学に傾注する。
14歳(1730年(享保15年))の頃から近郷の医師で漢学者の鈴木玄淳の塾に通い、壮年期に至るまで漢学や漢詩などを学んだ。
17歳(1733年(享保18年))には江戸に遊学、服部南郭に学んでいる。
25歳(1741年(寛保元年))の頃、鈴木玄淳らとともに水戸藩の儒学者で彰考館総裁を務めた名越南渓に師事し、朱子学・#漢 ……
長久保赤水が亡くなってから、223年と81日が経過しました。(81532日)