宮崎康平 氏(みやざきこうへい)
作家、古代史研究家[日本]
1980年 3月16日 死去享年64歳
宮﨑 康平(みやざき こうへい、1917年5月7日 - 1980年3月16日)は、日本の古代史研究家、作家、元会社役員。
『まぼろしの邪馬台国』によって日本中に邪馬台国論争を巻き起こした。
本名は懋、失明後に一章に改名。
正確な表記は「宮﨑」(「崎」の字は山偏に竒)であるが「宮﨑」と表記出来ない環境が一部存在するので「宮崎」で通すことが多い。
以下本項でも「崎」の字を用いる。
生涯=
本名は宮崎懋(みやざきつとむ)。
のちに一章(墓誌名)、一彰と改名する。
ペンネームは当初、日夏耿之介の名前から一字を取って「宮崎耿平」(みやざきこうへい)としていたが、人から正しく「こうへい」と呼んでもらえなかったことからその後「康平」に変更している。
康平の家系は、江戸時代末期の長崎県南高来郡杉谷村六ッ木(現:島原市六ッ木町)の宮崎良右衛門(平民苗字許可令により「関蔵」と改名)を祖先とし、會祖父は徳平、祖母はキン(四女)、父は徳市、母は秀子の二男として、1917年、長崎県島原市で宮崎組という土建業を営む家に生まれる。
旧制早稲田大学文学部を卒業後の1940年に東宝映画(現在の東宝)へ脚本家として入社する。
兄が死去したため、東宝を退社して実家へ戻り1946年2月、南旺土木(宮崎組の後身。
名前は宮崎が愛していた南旺映画に由来)の取締役社長となる。
同年11月には島原鉄道の常務取締役にも就任。
しかし南旺土木の経営は行き詰まり1948年 ……
宮崎康平が亡くなってから、44年と250日が経過しました。(16321日)