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木沢長政(きざわながまさ)

戦国武将[日本]

(天文11年3月17日没)

(ユリウス暦) 1542年 4月2日 死去討死

木沢 長政(きざわ ながまさ)は、戦国時代の武将。
河内、山城南部の守護代。
官位は従五位下左京亮。
河内飯盛山城城主、大和信貴山城城主。
木沢右近、木沢又八郎は一族と思われる。
出自= 木沢氏は畠山氏の被官として名が見える一族である。
南北朝時代初期の1349年(正平4年)に木沢なる人物が南朝から将軍方に降った記録があり、1431年(永享3年)には木沢常陸入道なる人物が馬伏郷・葛原郷の有力者であった旨の記録がある。
1460年(長禄4年)には木沢山城守なる人物が畠山家臣団の中で北河内の最有力土豪であったことをうかがわせる記録がある。
馬部隆弘は、木沢家は応永17年(1410年)〜永享5年(1433年)まで活動が確認できる木沢兵庫入道善堯と、応永26年(1419年)〜翌27年まで活動が確認できる木沢蓮因(上記の木沢常陸入道と同一人物か)の2人を祖として、善堯-助秀-左衛門尉-盛秀-矩秀と繋がる兵庫助家と、蓮因-秀興-孫四郎-秀久-浮泛-長政-相政と繋がる左近大夫家が存在したと主張した。
概略= 長政の時代において、主家の畠山氏は総州家と尾州家に分かれて対立しており、当初は畠山義就を祖とする畠山総州家の畠山義堯に仕えていた。
だが、次第に独自の行動をするようになっていく。
細川氏本家京兆家へ取り入って自らの地位向上に努める中、政敵の排除には一向宗と法華宗の宗教対立まで利用する。
やがては主家を上回るほどの勢力を一代で築き上げたが孤立し、 ……