二宮尊徳(にのみやそんとく)
農政家[日本]
(通称・金治郎、安政3年10月20日歿)
1856年 11月17日 死去享年70歳
二宮 尊徳(にのみや そんとく)は、江戸時代後期の経世家、農政家、思想家である。
自筆文書では金治郎(きんじろう)と署名している例が多いが、一般には「金次郎」と表記されることが多い。
また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と読むが、「そんとく」という読みで定着している。
経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導した。
生涯=
相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山(かやま))に、百姓二宮利右衛門 の長男として生まれる。
母は曽我別所村・川久保太兵衛の娘・好(よし)。
尊徳の弟には二宮三郎左衛門の養子・友吉(常五郎)と富治郎がいる。
尊徳は、まず堀之内村の中島弥三右衛門の娘・きの(キノ)を妻とするが、離縁。
次いで20歳若いが貞淑温良な飯泉村の岡田峯右衛門の娘・なみ(波子)を娶った。
後者は賢夫人と称される。
子息は、きのとの間に長男の徳太郎がいたが夭折しており、なみとの間に、嫡男の尊行(弥太郎)、長女ふみ(富田高慶室)をもうける。
幼少時代=
宝永噴火後の酒匂川の洪水氾濫実績図(出典:富士山防災協議会)。
富士山噴火によって降り積もった火山灰により、金治郎の故郷はじめ足柄平野は水害に苛まれていた
当時の栢山村は小田原藩領であった。
父利右衛門は、養父銀右衛門から13石の田畑と邸を受け継いでおり、当初は豊かだったが散財を重ねていた。
そこに、 ……
二宮尊徳が亡くなってから、168年と3日が経過しました。(61365日)