北蓮蔵(きたれんぞう)
洋画家[日本]
1949年 12月21日 死去享年74歳
北 蓮蔵 (きた れんぞう、明治9年(1876年)7月29日 - 昭和24年(1949年)12月21日)は、明治から昭和にかけて活動した洋画家。
略伝=
岐阜県厚見郡北一色村(現在の岐阜市北一色)の香厳寺に、北淳心と房衛の次男として生まれる。
幼少期には両親が読経を教えようとしても覚えず、絵ばかり描いていたという。
1889年(明治22年)東京で女学校の教員をしていた姉を頼って上京、同郷の山本芳翠と合田清らによって設立された生巧館画塾に入る。
蓮蔵は芳翠の書生をしていたと後に回想しており、また時に「芳翠二世」を名乗り、蓮蔵と芳翠を「親戚」とする同時代資料もある(真偽不明)ことから、両者は単なる画塾の師弟にとどまらない深い関係にあったようだ。
更に蓮蔵は白滝幾之助、和田英作、和田三造、岡田三郎助といった同時代の画家とも交流を重ねた。
芳翠が画塾を帰朝した黒田清輝に託すると、蓮蔵も後身の天真道場で学び、1897年(明治30年)東京美術学校(現在の東京芸術大学)選科に入学、翌年卒業。
白馬会展には、大画面に旧派的な色彩で描いた構想画を出品するが、良い評価はなかなか得られず次第に出品数も減っていった。
この時期、博文館から出版された『少年世界』などの挿絵を手掛け初めており、蓮蔵は以後昭和初期まで多くの挿絵を描いている。
明治30年半ばになると、芳翠の助手として舞台背景画の制作に携わり、同じく芳翠が企画したと思われる日露戦争を描いた ……
北蓮蔵が亡くなってから、74年と335日が経過しました。(27364日)