加藤文麗(かとうぶんれい)
絵師[日本]
(天明2年3月5日没)
1782年 4月17日 死去享年77歳
加藤 文麗(かとう ぶんれい、宝永3年(1706年) - 天明2年3月5日(1782年4月17日))は、江戸時代中期の江戸幕府旗本、また絵師である。
谷文晁の師として知られる。
武士としての名は加藤泰都。
略歴=
諱は泰都、幼名は泰高、字を文麗、号は豫斎、通称を織之助(一説に左兵衛)、左金吾と称した。
妻は谷口正次の娘で江戸城大奥女中だった心涼院がおり、心涼院との間に泰衑をもうけている。
この心涼院の姉妹には、徳川吉宗の側室で徳川宗尹を産んだ深心院がいる。
文麗は伊予大洲藩第3代藩主加藤泰恒の六男に産まれ、同族の旗本加藤泰茂の養嗣子となって正徳4年(1714年)に家督相続した。
旗本としては高禄の3000石を継いで旗本寄合席となった。
寛延3年(1750年)に西城御小姓組番頭に進み、同年、従五位下・伊予守に叙せられる。
宝暦3年(1753年)8月、職を辞した。
武道の修練の傍ら幼少より画を好み、木挽町狩野家の絵師(狩野常信、のちに周信)について狩野派の画法を学び、宝暦頃から没年まで絵手本などの作画をしている。
略筆墨画を得意としており、江戸に出て下谷竹町の藩邸に住んだ。
文麗と谷文晁の父麓谷とは旧知の仲であったため、少年期の文晁の師となり、狩野派を伝えた。
文晁の名は文麗にちなんだものと推察されている。
事実、文晁は文政4年(1821年)の伝来書に自ら文麗門下と称している。
その他の門弟に黒田綾山、高田円乗らがおり、円乗の門から ……
加藤文麗が亡くなってから、242年と216日が経過しました。(88607日)