狩野周信(かのうちかのぶ)
絵師、木挽町狩野家第3代[日本]
(享保13年1月6日没)
1728年 2月15日 死去享年69歳
狩野 周信(かのう ちかのぶ、万治3年7月2日〈1660年8月7日〉 - 享保13年1月6日〈1728年2月15日〉は、日本の江戸時代前期から中期にかけて活躍した絵師。
江戸幕府に仕えた御用絵師で、狩野派(江戸狩野)の中で最も格式の高い奥絵師4家の1つ・木挽町狩野家の3代目。
幼名は生三郎、初名は右近で、如川、泰寓斎と号した。
父は狩野常信、母は狩野安信の娘。
弟に岑信、甫信、子に古信。
略伝=
狩野常信の長男として生まれる。
延宝6年(1678年)19歳の時、4代将軍徳川家綱にお目見え。
宝永7年(1710年)10人扶持を受け、正徳3年(1713年)に常信が没したため跡を継いだ。
享保4年(1719年)法眼に叙せられ、中務卿と称する。
『徳川実紀』「有徳院殿御実紀附録」には、「養朴うせぬる後は、其子如川周信を召して、常にとひはからわせ玉ひしが」とあり、常信没後、有徳院・徳川吉宗の絵画指導をしていた。
一方、将軍の寵愛は周信に慢心を生んだらしく、湯浅常山が纏めた『文会雑記』には、弟子の長谷川如辰の言葉として「近頃周信が書崩して、埒もなき絵になりたるは、最早我を圧す絵はなきと云ひ誇る心より、大事の戒を忘れて、散々のことになりたると也」といった悪評も伝えられる。
享保13年(1728年)69歳で没。
墓は池上本門寺。
平成14年(2002年)に同寺の五重塔が解体・修理された際の周辺整備事業として、周信の墓が発掘調査され、筆箱、香箱、眼鏡、煙管、毛抜き、印籠、刀子、 ……
狩野周信が亡くなってから、296年と278日が経過しました。(108392日)