登石雋一 氏(といししゅんいち)
元東映動画社長[日本]
2012年 9月11日 死去腎細胞がん享年81歳
登石 雋一(といし しゅんいち、1932年3月7日[1] - 2012年9月11日)は、日本の映画プロデューサー、映画会社経営者である[2][3][4][5][6][7][8][9][10]。
東映東京撮影所で進行主任、企画者を務めた後、東映人事部長、次いで取締役企画製作部長・経営企画室長、東映動画(現在の東映アニメーション)代表取締役社長、東映化学工業(現在の東映ラボ・テック)代表取締役社長を歴任した[2][3][11]。
本業の傍ら、劇映画や演劇への俳優としての出演作もあり[8][12][13][14][15][16][23][24]、十石 峻(といし しゅん)の別名ももつ[16]。
人物・来歴=
1932年(昭和7年)、東京府(現在の東京都)に生まれる[2][3]。
第二次世界大戦後、1951年(昭和26年)4月、東京大学法学部に進学[2]、在学中は「東大演劇研究会」に参加して演劇活動に取り組み、同期には梶谷典子、成島庸夫、田村孟、三善晃、渡辺守章らがいた[12][25]。
1955年(昭和30年)3月、同大を卒業、同年4月、定期採用第4期生として東映に入社した[2]。
本社文書課を経て撮影所製作課に異動、進行を務め、進行主任となってからの作品として、1960年(昭和35年)11月8日公開の『大いなる驀進』(監督関川秀雄)、1962年(昭和37年)3月21日公開の『恋と太陽とギャング』(監督石井輝男)が記録に残る[6]。
同年には企画部に異動になり、同年8月29日に公開された『東京丸の内』(監督小西通雄)では、上司の渡辺洋一に次いで企画者としてクレジットされた[7][8][9][10]。
1963年( ……
登石 雋一氏(といし・しゅんいち=元東映動画社長)11日午前4時15分、腎細胞がんのため東京都江東区の病院で死去、80歳。東京都出身。葬儀は13日に近親者で行った。喪主は妻敦子(あつこ)さん。
登石雋一さんが亡くなってから、12年と294日が経ちました。(4677日)