栗林忠道(くりばやしただみち)
陸軍大将[日本]
(硫黄島の戦いで玉粋)
1945年 3月26日 死去戦死享年55歳
栗林 忠道(くりばやし ただみち、1891年〈明治24年〉7月7日 - 1945年〈昭和20年〉3月26日)は、日本の陸軍軍人。
最終階級は陸軍大将。
位階勲等は従四位勲一等(旭日大綬章)。
陸士26期・陸大35期。
長野県埴科郡西条村(現:長野市松代町)出身。
第二次世界大戦(太平洋戦争/大東亜戦争)末期の硫黄島の戦いにおける、日本軍守備隊の最高指揮官(小笠原兵団長。
小笠原方面陸海軍最高指揮官)であり、その戦闘指揮によって敵であったアメリカ軍から「アメリカ人が戦争で直面した最も手ごわい敵の一人であった」と評された。
経歴=
陸軍士官学校(1907年)
栗林忠道の肖像画
戦国時代以来の旧松代藩郷士の家に生まれる。
1911年(明治44年)、長野県立長野中学校を卒業(第11期)。
在学中は文才に秀で、校友誌には美文が残されている。
当初ジャーナリストを志し東亜同文書院を受験し合格していたが、恩師の薦めもあり1912年(大正元年)12月1日に陸軍士官学校へ入校。
陸軍将校の主流である陸軍幼年学校出身(陸幼組)ではなく、中学校出身(中学組)であった。
長野中学の4期後輩に今井武夫陸軍少将がいる。
陸士同期に、のちの硫黄島の戦いで混成第二旅団長に指名して呼び寄せた“歩兵戦の神”の異名をもつ千田貞季や、田中隆吉、影佐禎昭がおり、とくにノモンハン事件では、戦車第3連隊長吉丸清武、第23師団参謀長大内孜、第23師団捜索隊長東八百蔵の3人の同期が戦死しており ……
栗林忠道が亡くなってから、79年と240日が経過しました。(29095日)