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近藤浩一路(こんどうこういちろ)

水墨画家漫画[日本]

1962年 4月27日 死去脳炎享年79歳

近藤浩一路 - ウィキペディアより引用

近藤 浩一路(こんどう こういちろ、本名:浩(こう)、明治17年(1884年)3月20日 - 昭和37年(1962年)4月27日)は、日本の水墨画家・漫画家。
明治初期の実業家。
教育者である近藤喜則は祖父にあたる。
建築家の白井晟一は義弟にあたる。
略歴= 出生から美術学校・漫画記者時代= 山梨県南巨摩郡睦合村(現南部町)に生まれる。
近藤家は江戸時代に南部宿の本陣を務めた家柄で、父は浩一路の幼少時に病没しているが、祖父の喜則は初代県会議長を務めたほか地元で私塾を営んでおり、裕福な家庭に育つ。
父の療養のため幼少時には静岡県庵原郡岩渕村で過ごし、富士川小学校を経て1902年(明治35年)に韮山中学(静岡県立韮山高校)を卒業すると上京する。
祖父からは医者になることを期待され英語学校や予備校へも通うが、文芸誌への投稿や俳句など文芸活動に熱中し、1904年(明治37年)には画家を志して洋画家の和田英作の白馬会研究所に所属し、同年9月には東京美術学校西洋画科へ入学する。
在学中には白馬会へ出展しており、この頃の画風には外光派の影響が見られる。
同級生の影響で水墨画をはじめたほか、文芸活動も行っている。
また、同級生には親友となった藤田嗣治らがいる。
美術学校では一年落第し、1910年(明治43年)に卒業する。
卒業制作は連作「五十三駅」。
卒業後は白馬会や文展への出展を行い入選もしており、京都で女子の絵画指導も行っているほか、藤田ら ……

近藤浩一路が亡くなってから、62年と208日が経過しました。(22854日)

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