日柳燕石(くさなぎえんせき)
幕末の志士[日本]
(慶応4年8月25日没)
1868年 10月10日 死去享年52歳
日柳 燕石(くさなぎ えんせき、文化14年3月14日(1817年4月29日) - 慶応4年8月25日(1868年10月10日))は、江戸時代末期の志士。
讃岐国那珂郡子松郷榎井村字旗岡(現・香川県仲多度郡琴平町)の出身。
幼名長次郎のち耕吉、諱は政章、字は士煥、号は燕石、別号柳東・春園・白堂・楽王・呑象樓・双龍閣。
生涯=
父は加島屋惣兵衛が五十七歳、母は幾世(いくよ、きせ)が三十八歳の時の子である。
幼少時代から気が鋭く、伯父の石崎近潔に学び、その後13歳で琴平(松尾村)の医師・三井雪航に学んだ。
三井雪航や岩村南里に経史・詩文、奈良松荘に国学・歌学を学び、河野鉄兜や森田節斎らと交遊した。
詩文に天賦の才を持ち書画をよくした。
当時の榎井村は幕府直轄地で、豪商・豪農が軒を並べており、その財力や文化程度は高く、また隣の松尾村の街には、江戸、上方をはじめ全国各地から金毘羅大権現 松尾寺に参詣客が訪れてくるため、当時最先端の情報が集まっていた。
そのような環境の下、加島家という豪農で育った燕石は、幼いときから儒学の勉強に励み、14歳頃までには四書五経を読破した。
天保八年(1837年)頃に燕石を訪問した広瀬淡窓の文によると、燕石が八百余家を救ったという。
反面、侠気をもって知られ、21歳で父母に死別したのちに家督を相続して詩作に興じ33歳頃まで遊俠したことで、千人を超える郷党浮浪の徒の首領となり、博徒の親分としても知られていた。
また勤 ……
日柳燕石が亡くなってから、156年と41日が経過しました。(57020日)