藤蔭静樹 氏(ふじかげせいじゅ)
日本舞踊家・二代目[日本]
(宗家藤蔭流藤蔭会二代目宗家、本名・安藤暢子)
2011年 9月18日 死去多臓器不全享年85歳
藤蔭 静樹(ふじかげ せいじゅ、1880年(明治13年)10月13日 - 1966年(昭和41年)1月2日)は、日本舞踊家。
藤蔭流(ふじかげりゅう)を創始し、新舞踊を開拓した。
前名に藤蔭静枝、藤間静枝、新巴屋八重次(しんともえや やえじ)、内田静江(うちだ しずえ)など。
本名は内田 八重(うちだ やい)。
一時期永井荷風の妻だった。
生涯=
寅吉・ゆきの次女として新潟市古町に生まれた。
入婿の父は、義父の寿司屋を継いでいた。
義父(八重の祖父)は、越後高田藩榊原家の家臣だった。
5歳ごろから町内の妓楼庄内屋に居着いて踊りや三味線に親しみ、9歳から市川登根に踊りを習い寺子屋で読み書きを学び、13歳で舞妓となった。
上京=
1898年(明治31年)(19歳)のとき上京し、翌年市川九女八の弟子となり、師匠の知人の依田学海から内田静江の芸名を貰い、また佐佐木信綱の竹柏園で短歌を学んだ。
1903年、川上音二郎一座の興行に、九女八に従って明治座の舞台を踏んだが、日舞への転進を勧められて二代目藤間勘右衛門に入門した。
29歳の1909年、藤間静枝の名を許され、生活のため新橋宗十郎町(現中央区銀座7丁目)に新巴家の看板を出し、芸妓・八重次となった。
文学芸者と呼ばれた。
1910年(明治43年)(30歳)、慶應義塾大学文学部教授永井荷風と馴れ初め、交情を深めて後1914年(大正3年)結婚したが、荷風の浮気に怒って一年足らずで飛び出し、八重次に戻った。
荷風とは離婚 ……
藤蔭静樹さんが亡くなってから、13年と65日が経ちました。(4813日)