久保田米僊(くぼたべいせん)
日本画家[日本]
1906年 5月19日 死去享年55歳
久保田 米僊(くぼた べいせん、嘉永5年2月25日(1852年3月15日) - 明治39年(1906年)5月19日)は、明治時代の日本画家、画報記者。
来歴=
生い立ち=
鈴木百年の門人。
京都錦小路東洞院西入元法然寺町生まれ。
本名は久保田満寛、後に寛。
幼名は米吉といった。
字は簡伯といい、米僊、米仙、漁村、錦鱗子、紫桜庵、塵芥頭陀などと号す。
代々割烹料理店「山城屋」(「山根楼」とも伝えられる)を営む久保田音七の一人息子として生まれた。
幼少から絵が好きで、寺子屋へ行っても手習いはせず、絵ばかり描いていた。
矢立を腰に挿し、町内の白壁や門に勤王の志士のさらし首の絵を描いてまわり、親を困らせたようだ。
家業を継がせようとする父から絵を禁じられても、深夜密かに起きて描いたという。
慶応3年(1867年)6月、日本画家の田中有美の紹介により父に内緒で、四条派の鈴木百年に師事する。
更に沢渡精斎に経史を習い、京都中の貸本屋を巡り古代の歴史風俗を独学したという。
明治維新の後、明治6年(1873年)第二回京都博覧会の在洛五十名の揮毫者のうちに選ばれ、「奔馬」を描く。
この頃から幸野楳嶺との親交が始まり、『京都日日新聞』の挿絵を描いたり、風刺雑誌『我楽多文庫』の編集に関わる。
この頃は南画が大流行しており、米僊らの写生派は困窮し、輸出用の扇や友禅の下絵を描いて糊口をしのいだ。
一方、神戸に居留するアメリカ人から技法を習い、油画 ……
久保田米僊が亡くなってから、118年と186日が経過しました。(43286日)