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内藤昌豊(ないとうまさとよ)

戦国武将[日本]

(天正3年5月21日没)

(ユリウス暦) 1575年 6月29日 死去討死享年54歳

内藤昌豊 - ウィキペディアより引用

内藤 昌豊(ないとう まさとよ)は、戦国時代の武将。
武田氏の家臣で武田四天王の一人。
「内藤昌豊」の名で伝わるが、1977年に服部治則が正しい実名は「内藤 昌秀(まさひで)」であると指摘している。
生涯= 出生から信玄時代= 『武田三代軍記』によれば、大永2年(1522年)、武田信虎の重臣・工藤虎豊(下総守)の次男として生まれたという。
父・下総守の事跡は不明であるが、永正5年(1508年)に武田信虎に反乱して敗北し、郡内地方の小山田平三とともに伊豆国韮山の伊勢宗瑞(北条早雲)を頼って逃れた人物に「工藤殿」がおり、これが下総守に相当するとも考えられている。
初見史料は永禄2年(1559年)6月12日で、「工藤源左衛門大尉」を名乗り信玄の側近として活動していることが確認される。
永禄6年頃から永禄13年頃まで信濃国深志城を守備している。
『甲陽軍鑑』によれば、永禄4年(1561年)の第4次川中島の戦いでは本隊に所属し、上杉軍の背後を襲う妻女山別働隊の大将として活躍したという。
永禄9年(1566年)までに信濃国深志城(松本城、長野県松本市)の城代を務める。
武田氏は西上野侵攻を行い、同永禄9年9月に箕輪城(群馬県高崎市箕郷町)を攻略し、永禄10年(1567年)3月に白井城を攻略し、西上野を領国化する。
昌豊は永禄9年頃から後閑氏など上野国衆の取次を務めている。
箕輪城代は永禄9年から翌永禄10年まで春日虎綱・真田幸綱による在番で、永禄11年(1568 ……

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