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太田聴雨(おおたちょうう)

日本画家[日本]

1958年 3月2日 死去享年63歳

太田聴雨 - ウィキペディアより引用

太田 聴雨(おおた ちょうう、1896年(明治29年)10月18日 - 1958年(昭和33年)3月2日)は、大正から昭和時代にかけて活躍した日本画家。
本名は栄吉。
初号・別号に翠岳。
略伝= 生い立ち= 宮城県仙台市出身。
父は聴雨が生まれて間もなく妻を離縁したため、聴雨は母の愛情を生涯知らずに育った。
後年、「制作の動機は、母を慕う心の永遠化にある」としばしば人に語っており、この生い立ちが聴雨芸術の根幹を作ったといえる。
聴雨は役所では祖父の四男として届けられ、山師だった聴雨の父は不在な事が多かったため、祖父の元で育った。
祖父は二日町(青葉区)で寿司屋を営んでおり、幼少から飯炊き、水仕事、漬物の仕込みと言った家業を手伝わせていた。
11歳の時祖父が亡くなると、叔父や叔母に引き取られ物思いに沈む少年になっていった。
1910年(明治43年)上杉通小学校を抜群な成績で卒業。
翌年14歳の時、東京で印刷工として働く父に引き取られ、上京。
間もなく川端玉章門下の内藤晴州の内弟子となる。
聴雨の画号もその頃から使い始め、元代の禅僧・煕晦機の「人間万事塞翁馬、推枕軒中聴雨眠」に由来する。
その3年目、食費を負担しきれなくなり父宅へ戻る。
家計を助けるため、不本意ながら書画屋の仕事に就き、夜画作する日々を送る。
青樹会= 1913年(大正2年)巽画会第13回展に《鏡ヶ池》を出品して初入選。
当時、巽画会は新進画家たちの登竜門であるだ ……

太田聴雨が亡くなってから、66年と264日が経過しました。(24371日)

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