蠣崎波響(かきざきはきょう)
松前藩士、家老、絵師[日本]
(文政9年6月22日没)
1826年 7月26日 死去享年63歳
蠣崎 波響(かきざき はきょう)/蠣崎 広年(かきざき ひろとし)は、江戸時代後期の画家、松前藩家老。
生涯=
松前藩12代藩主・松前資広の五男に生まれる。
13代藩主の道広は異母兄にあたる。
母は松前藩の家臣の長倉長左衛門貞義の娘・勘子。
のちに家老職を継いだ長男の波鶩(広伴)も画家として知られる。
幕末期の家老であった下国崇教も一時期、波響の養子であったことがある。
同じく幕末期の家老で藩政を執り仕切った松前崇効(松前勘解由)とその補佐をした蠣崎和直(蠣崎監三)は実孫(波鶩次男と三男)にあたる。
波響が生まれた翌年に父が亡くなり、兄の道広が藩主を継いだ。
翌年に波響は、家禄五百石で藩主一門寄合の蠣崎家の蠣崎広武の養子となった。
幼い頃から画を好み、8歳の頃馬場で馬術の練習を見て、馬の駆ける様を描いて人々を驚かせたと伝わる。
叔父で松前藩家老の広長は波響の才能を惜しんで、安永2年(1773年)に江戸に上がらせ、南蘋派の画家の建部凌岱に学ばせた。
翌3年に凌岱が亡くなると、師の遺言に従い宋紫石に師事した。
江戸は田沼意次の治世下で割と開放的であり、波響もまた江戸の気風によく泳いだとされる。
天明20年(1783年)20歳の時松前に戻った。
この年の冬から大原左金吾(呑響)が約一年ほど松前に滞在しており、以後親交を結んだ。
波響と号したのはこのころからである。
寛政元年(1789年)のクナシリ・メナシの戦い ……
蠣崎波響が亡くなってから、198年と96日が経過しました。(72416日)