宋紫石(そうしせき)
絵師・南蘋派[日本]
(天明6年3月11日没)
1786年 4月9日 死去享年76歳
![宋紫石 - ウィキペディアより引用](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/5e/%E5%AE%8B%E7%B4%AB%E7%9F%B3_%E8%81%AF%E7%8F%A0%E4%BA%89%E5%85%89%E5%9B%B3_%E7%B5%B9%E6%9C%AC%E7%9D%80%E8%89%B2_%E6%98%8E%E5%92%8C2%E5%B9%B4%EF%BC%881765%EF%BC%89%E7%A5%9E%E6%88%B8%E5%B8%82%E7%AB%8B%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8_S%C5%8D_Shiseki_Flowers_and_Birds_in_the_Snow_a_hanging_scroll_Color_on_silk_Middle_Edo_period_dated_1765_Kobe_City_Museum.jpg/250px-thumbnail.jpg)
宋 紫石(そう しせき、正徳5年(1715年) - 天明6年3月11日(1786年4月9日))は、江戸時代中期の画家。
長崎で熊代熊斐・清人画家宋紫岩に画法を学び、江戸に帰り宋紫石を名乗る。
沈南蘋の画風を江戸で広め当時の画壇に大きな影響を与えた。
山水・花卉に優れる。
江戸の人。
本名は楠本幸八郎。
字は君赫または霞亭。
紫石のほか雪渓・雪湖・宋岳などと号した。
略伝[編集]
若い頃の事績は不明。
ただし、楠本家の菩提寺が紫石の代で宗恩寺から徳本寺に変わっていることから、宗恩寺か徳本寺の絵仏師的な役割を担っていたとする説がある。
40歳半ばの宝暦年間に長崎に赴き、熊斐に就いて沈南蘋の画法を修め、ついで来舶した清人画家宋紫岩にも入門した。
この師の名から中国風に宋紫石と名乗った。
しかし画風は沈南蘋の影響が濃厚である。
平明で美しい写実的花鳥画を得意とし鶴亭とともに南蘋派の東西双璧とされる。
紫石は自然景に吉祥モチーフを散りばめた南蘋の画風から、自然景を取り除いてモチーフを整理して画面を構成することで、日本人の好みに合った画風へ変換した。
『物類品隲』。
1763(宝暦13)年刊。
平賀源内著。
国立科学博物館の展示。
写真左の開かれている本が巻之五。
平賀源内『物類品隲』(ぶつるいひんしつ)全6巻の内第5巻「産物図会」の挿図を手がけ、『ヨンストン動物図譜』を模写している。
著名な文人や諸大名との交流が ……
推定関連画像
宋紫石が亡くなってから、238年と107日が経過しました。(87037日)