酒井忠以(さかいただざね)
播磨姫路藩主[日本]
(寛政2年7月17日没)
1790年 8月27日 死去享年36歳
酒井 忠以(さかい ただざね)は、江戸時代中期から後期の播磨姫路藩第2代藩主。
雅楽頭系酒井家15代。
生涯=
姫路藩世嗣・酒井忠仰の長男として江戸に生まれる。
父が病弱だったため、祖父・忠恭の養嗣子となり、18歳で姫路藩の家督を継いだ。
絵画、茶道、能に非凡な才能を示し、安永8年(1779年)、25歳の時、ともに日光東照宮修復を命じられた縁がきっかけで出雲松江藩主の松平治郷と親交を深め、江戸で、あるいは姫路藩と松江藩の参勤行列が行き交う際、治郷から石州流茶道の手ほどきを受け、のちには石州流茶道皆伝を受け将来は流派を担うとまでいわれた。
大和郡山藩主の柳沢保光も茶道仲間であった。
弟に江戸琳派の絵師となった忠因(酒井抱一)がいるが、忠以自身も絵に親しみ、伺候していた宋紫石・紫山親子から南蘋派を学び、『兎図』(掛軸 絹本著色、兵庫県立歴史博物館蔵)や『富士山図』(掛軸 絹本著色、姫路市立城郭研究室蔵)等、単なる殿様芸を超えた作品を残している。
天明元年には将軍の名代として光格天皇の即位式に参賀している。
一方で藩政は、天明3年(1783年)から天明7年(1787年)までの4年間における天明の大飢饉で領内が大被害を受け、藩財政は逼迫した。
このため、忠以は河合道臣を家老として登用し、財政改革に当たらせようとした。
だが、忠以は寛政2年(1790年)に36歳の壮年で江戸の姫路藩邸上屋敷にて死去し、保守派からの猛反発もあって ……
酒井忠以が亡くなってから、234年と84日が経過しました。(85553日)