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雲谷等顔(うんこくとうがん)

絵師[日本]

(雲谷派の祖、元和4年5月3日没)

1618年 6月25日 死去享年72歳

雲谷 等顔(うんこく とうがん)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて活動した日本の画家。
肥前国藤津郡能古見(現・佐賀県鹿島市)生まれ。
毛利氏の御用絵師となって幕末まで続く雲谷派の祖。
次男は同じく画家で、雲谷派の跡継ぎである雲谷等益。
経歴= 肥前国籾岳城の城主、遠くは梶原景季の流れを汲む武士、原直家の次男として天文16年(1547年)に生まれる。
幼名を治兵衛、本名を直治、別号を容膝と称した。
しかし、同じく直家の次男とされ、後に肥前鍋島藩の家老格として存続した家利の家系図には、直治の名は記されていないことから、庶子か原氏一族の出身という説が有力である。
主家滅亡後、またはその少し前に画家へ転向し、京都で狩野派に学ぶ。
師は、狩野松栄、または狩野永徳とされるがはっきりしない。
ただ、毛利藩の公的文書に「狩野等顔」と署名していることが近年発見されており、少なくとも公的な場では狩野姓を名乗れる程の繋がりがあったことは確かなようだ。
その後、再び西国に戻り、天正元年(1573年)に毛利輝元に召抱えられた。
等顔は、連歌や茶の湯にも堪能で、等顔の寄親であった佐世元嘉と共に出席しており、いわば輝元の御伽衆として仕えた。
このころから既に雪舟の水墨画的な大胆な画風を確立させており、文禄2年(1593年)には輝元より禄100石、雪舟筆の『山水長巻』と雪舟の旧居『雲谷庵』を与えられ、既に途絶えていた雪舟画 ……

雲谷等顔が亡くなってから、406年と107日が経過しました。(148399日)

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