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伊藤左千夫(いとうさちお)

短歌歌人作家[日本]

1913年 7月30日 死去脳溢血享年50歳

伊藤左千夫 - ウィキペディアより引用

伊藤 左千夫(いとう さちお、本名:伊藤 幸次郎、1864年9月18日〈元治元年8月18日〉- 1913年〈大正2年〉7月30日)は、日本の歌人、小説家。
明治期に活躍した。
明治法律学校(現・明治大学)で学ぶが、眼病のため中退し帰郷。
再度上京し、1889年に牛乳搾取業を始めた。
短歌に関心をもったのは1893年頃で、正岡子規の『歌よみに与ふる書』に感動、1900年に門人となった。
子規没後は、根岸短歌会の中心となり、「馬酔木」「アララギ」を創刊、アララギ派の基礎を作った。
1905年には、純愛小説『野菊の墓』を発表、夏目漱石にも激賞された。
晩年には、感情の直接的表現と、熱情の奔流を主張する「叫び」の説を唱えた。
門人に島木赤彦・斎藤茂吉らがいる。
経歴[編集] 上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市殿台)の農家出身。
父は上総道学の流れを汲んだ漢学者であり、和歌にも通じていた。
小学校卒業後、直ちに佐瀬春圃の私塾で学んだ。
論争好きで政治家を志したこともあるなど、バイタリティのある性格であった。
1881年(明治14年)4月明治法律学校(現・明治大学)に入学するも眼病を患い、同年12月に中退。
中退後、豊功舎という牧場で毎日早朝から深夜まで働き、数年で独立。
26歳のときに現在の錦糸町駅前に牛舎を建て、乳牛を飼育して牛乳の製造販売を始めた。
仕事が軌道に乗った後は伊藤並根から和歌や茶道を学ぶなど、趣味人として交際の範囲を広げた。< ……

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伊藤左千夫が亡くなってから、110年と362日が経過しました。(40540日)