守安祥太郎(もりやすしょうたろう)
ジャズピアニスト[日本]
1955年 9月28日 死去自殺享年32歳
守安 祥太郎(もりやす しょうたろう、1924年1月5日 - 1955年9月28日)は、日本のジャズ・ピアニスト。
初期モダンジャズのビバップを日本でいち早く体得した先駆者であったが、31歳で早世したため録音がほとんど残されていないことから「幻のピアニスト」とも評されている。
来歴=
東京都出身。
父親は日本酸素、秋田木工拓殖、日米商店、日本絹布捺染などの重役を務めた守安瀧二郎。
慶應義塾幼稚舎、慶應義塾普通部を経て、慶應義塾大学経済学部から同大学院に進む。
学生時代からクラシック・ピアノに親しみ、大学時代はヨット部の主将だった。
ジャズに興味を持ち始めたのは社会人になってからだという。
1949年から、プロのピアニストとして活動開始。
1950年代には、五十嵐武要(ドラム)らと共にレギュラー・トリオを編成。
当時の日本のジャズ界では、まだビバップというジャンルは浸透していなかったため、守安の演奏は全く新しいジャズとしてミュージシャンの間で話題となった。
しかし進歩的すぎるがゆえに、大衆の支持を得る存在にはなれなかった。
音楽理論にも精通しており、理論的な方面からもビバップを解析して周囲の日本人ミュージシャンにレクチャーするなど、指導者的立場にあった。
チャーリー・パーカーのめまぐるしい超絶演奏を正確に採譜して、渡辺貞夫を驚かせたというエピソードもある。
1954年7月、横浜市伊勢佐木町のクラブ「モカンボ」で、伝 ……
守安祥太郎が亡くなってから、69年と18日が経過しました。(25220日)