伊能忠敬(いのうただたか)
測量家[日本]
(文化15年4月13日没)
1818年 5月22日 死去
伊能 忠敬(いのう ただたか、延享2年1月11日〈1745年2月11日〉- 文化15年4月13日〈1818年5月17日〉)は、江戸時代の商人・天文学者・地理学者・測量家。
通称は三郎右衛門(さぶろえもん)、勘解由(かげゆ)。
字は子斉、号は東河。
寛政12年(1800年)、56歳から、文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国を測量、73歳で死去。
その後は弟子たちが遺志を受け継いで『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。
1883年(明治16年)、贈正四位。
前半生=
伊能忠敬出生の地(千葉県九十九里町)
幼少期(九十九里町生活期)=
延享2年(1745年)1月11日、上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家で生まれた。
幼名は三治郎。
父親の神保貞恒は武射郡小堤(おんづみ)村(現・千葉県山武郡横芝光町小堤)にあった酒造家の次男で、小関家には婿入りした。
三治郎の他に男1人女1人の子がおり、三治郎は末子だった。
6才の時に母が亡くなり、家は叔父が継ぐことになった。
そのため、婿養子だった父・貞恒は兄と姉を連れて実家の小堤村の神保家に戻るが、三治郎は祖父母の下に残った。
小関家での三治郎の生活状況について、詳しくは分かっていない。
当時の小関村は鰯漁が盛んで、三治郎は漁具が収納されてある納屋の番人をしていたと伝えられている。
一方で、名主の家に残されていたということもあって、読み書きそろ ……
伊能忠敬が亡くなってから、206年と182日が経過しました。(75424日)