原健策 氏(はらけんさく)
俳優[日本]
(旧芸名・原健作)
2002年 2月7日 死去老衰享年98歳
原 健策(はら けんさく、1905年4月23日 - 2002年2月7日)は、日本の俳優。
広島県呉市出身。
本名は松原 義男、1953年までの芸名は原 健作。
時代劇を中心に脇役として活躍した。
所属は第二新国劇から千恵プロ、1937年に解散した後は日活太秦撮影所、1942年に大都京都、1949年から東映へ移り、最後の芸能事務所は龍プロダクション。
娘は女優の松原千明、孫はモデルの松原すみれ。
来歴=
三男三女の末子として生まれた。
1923年に旧制呉港中学校を中退。
新民衆劇学校(のち第二新国劇)に1期生として卒業、2期生だった大河内傳次郎とともに第二新国劇の看板役者となる。
1925年に聯合映画芸術家協会『弥陀ヶ原の殺陣』の国定忠治役で映画デビュー。
1926年第二新国劇退団。
1934年、新興キネマ京都へ入社、映画俳優に転進し『忠次売出す』で映画デビューを果たす。
時代劇映画が主流だった頃には伊丹万作・溝口健二の作品に出演。
『まぼろし城』(1940年)や『天兵童子』(1941年)など、子供向け映画で主演もあるが、大河内傳次郎・阪東妻三郎・片岡千恵蔵・嵐寛寿郎ら主演作品で準主演を務めた。
悪人・正体不明の怪人役などの難役をこなし、現場の信頼も厚く引っ張りだこで、「難役の健さん」と呼ばれた。
戦後、東映に移ってからもすっとベテランとして重宝がられ、新人に時代劇のセオリーをコーチする必要があるとまっ先に原が指名されたという。
北大路欣也も『黄金の ……
原健策さんが亡くなってから、22年と287日が経ちました。(8323日)