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豊臣鶴松(とよとみつるまつ)

豊臣秀吉嫡男[日本]

(幼名・棄(すて)、天正19年8月5日没)

1591年 9月22日 死去享年3歳

豊臣鶴松 - ウィキペディアより引用

豊臣 鶴松(とよとみ つるまつ)は、安土桃山時代の人物で、豊臣秀吉の側室・淀殿が生んだ長子。
鶴松の名で知られているが、幼名は棄(すて)で、武運長久を祈るために、八幡太郎とも呼ばれた。
生涯[編集] 天正17年(1589年)5月27日、豊臣秀吉の嫡男として山城淀城(現在の京都府京都市伏見区納所北城堀)で誕生した。
このとき秀吉は53歳で、当時としては高齢だったが、待望の我が子の出生を喜び、長寿を祈って「棄」と名付けた。
これは棄て児はよく育つという民間の信仰に従ったものである。
後に「鶴松」と改名したとされるが、時期や経緯は厳密には不明で、鶴松の名で記した古文書は実名敬避の習慣もあって極めて少なく、当時は棄君や単に若君などと呼ばれていた。
鶴松の傅役には、老臣の石川光重(豊前守)が任じられた。
生後30日の祝には、禁中より産衣など祝儀の品々を賜り、公家や家臣、町人に至るまで、様々な祝賀・進物を受けた。
蒲生氏郷は祖先の俵藤太(藤原秀郷)が大百足退治に使ったと言い伝えられていた矢の根(=鏃)を刀に仕立て直して贈ったと言う。
生後4か月の9月13日、早くも秀吉は鶴松を後継者としようと期待し、淀殿と共に大坂城に迎え入れた。
出立に際して後陽成天皇が祝賀として太刀を贈り、公家や群臣も再び祝賀の品々を贈ったが、鶴松は輿に乗せられ、絢爛豪華な大行列を従えて淀城から大坂城へと行進して入城した。
天正18年(1590年) ……

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豊臣鶴松が亡くなってから、432年と306日が経過しました。(158094日)