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地道行雄(じみちゆきお)

ヤクザ、三代目山口組舎弟・元若頭、地道組組長[日本]

1969年 5月15日 死去肺がん享年47歳

地道行雄 - ウィキペディアより引用

地道 行雄(じみち ゆきお、1922年〈大正11年〉1月22日 - 1969年〈昭和44年〉5月15日)は、日本のヤクザ。
暴力団・三代目山口組舎弟(元若頭)、地道組組長。
神光工業取締役[1]。
来歴= 神戸市兵庫区に工員の息子として生まれる。
昭和11年(1936年)に兵庫尋常小学校を卒業すると三菱電機で工員として働く。
召集令状により、昭和16年(1941年)に姫路師団に入隊する。
太平洋戦争では中国大陸に出征、華北と華中の戦線を転戦する。
昭和21年(1946年)4月に陸軍兵長として日本本土に復員後、暫くして神戸市兵庫区の福原で兄と共に自転車修理業を始める。
そこで「戦勝国民」と自称する一部の愚連隊化した不良三国人と喧嘩を繰り返した。
同じ頃、田岡一雄は、湊川の下沢通1丁目に田岡組を結成し、不良三国人から新開地に形成されていた闇市を守り、組織化され横暴を極める三国人達に挑むため、自警団を組織し対決していた。
田岡を憧憬の眼差しで見ていた地道は、街中で『わいは田岡はんのファンや!』と公言するほどだった。
やがて、地道は山口組二代目山口登の舎弟の目に停まり、ほどなく山口組事務所に出入りするようになる。
昭和21年(1946年)8月、街での人望も厚かった田岡一雄は、二代目山口組舎弟達の推挙により新開地の食堂「ハナヤ食堂」で山口組三代目を襲名した。
同年10月、盛大な山口組三代目襲名式が、神戸市須磨の割烹料亭『延命軒』で行われた。
三代目山 ……

地道行雄が亡くなってから、56年と47日が経過しました。(20501日)

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