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高野素十(たかのすじゅう)

俳人[日本]

1976年 10月4日 死去享年84歳

高野 素十(たかの すじゅう、1893年(明治26年)3月3日 - 1976年(昭和51年)10月4日)は、茨城県出身の日本の俳人・医師。
学位は、医学博士。
高浜虚子に師事。
虚子の唱えた「客観写生」を忠実に実践、簡潔で即物的な写生句で頭角を現し、山口誓子、阿波野青畝、水原秋桜子とともに「ホトトギスの四S」と称された。
「芹」主宰。
本名:高野与巳(よしみ)。
生涯= 1893年、茨城県北相馬郡山王村(現・取手市神住)に生まれる。
農家の長男で、小学校卒業まで利根川とその支流小貝川に囲まれた美しい田園地帯で育った。
1905年、新潟県長岡市に住む叔父のもとに寄宿し新潟県立長岡中学校に入学。
第一高等学校を経て、1913年に東京帝国大学医学部に入学。
1918年大学卒業。
法医学教室に入局し、法医学および血清学を専攻する。
同じ教室の先輩に水原秋桜子がおり、秋桜子の勧めで1923年より句作を開始。
なお医学部教室毎の野球対抗戦では、素十が投手、秋桜子が捕手でバッテリーを組むなどしている。
同年より東大俳句会に所属、「ホトトギス」12月号において初投句にして4句が入選。
1926年には初巻頭を取り、やがて秋桜子、山口誓子、阿波野青畝とともに「四S」として知られるようになる。
1929年、医学研究に専念するため一時句作を中断。
1932年に再開。
同年、新潟医科大学(現・新潟大学医学部)助教授となり、ドイツのハイデルベルク大学に留学。
帰国後の1935年 ……

高野素十が亡くなってから、48年と48日が経過しました。(17580日)

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