阿部正勝(あべまさかつ)
戦国武将[日本]
(慶長5年4月7日没)
1600年 5月19日 死去享年60歳
阿部 正勝(あべ まさかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。
徳川家の家臣。
徳川家康の1歳年長で、家康の幼少期から側近くに仕えた人物である。
生涯=
少年期=
天文16年(1547年)、6歳の家康(松平竹千代)が今川義元の命によって駿河国に向かった際に同行した。
『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によればこのとき正勝(徳千代)は7歳。
『徳川実紀』によれば正勝は6歳で、家康の「あそびの友として御輿につけて同じくのせてつかはさる」とある。
家康はその後織田方に抑留されるが、正勝は尾張まで同行し、天野康景(三之助)とともに熱田で家康に供奉した。
天文18年(1549年)、今川家と織田家の人質交換により家康は駿府に移るが、この際にも正勝は従って家康の側に仕えた。
今川義元が家康に散楽を所望した際には、正勝が家康に代わって披露したという。
『寛政譜』によれば弘治2年(1556年)、家康とともに元服し、「善九郎正勝」と名乗った。
その後、今川家の家臣・江原三右衛門定次の娘を娶った。
永禄元年(1558年)、家康の初陣である三河国寺部城の鈴木重辰攻め(寺部城の戦い)に従軍、次いで広瀬・挙母・伊保城攻めにも参加して功績をあげ、知行地を得た。
家康の自立後=
永禄3年(1560年)、義元の尾張出兵(桶狭間の戦い参照)の先陣を家康が任された際には、正勝は旗本を守った。
永禄5年(1562年)、家康の命を受け、伊東法印が所持し ……
阿部正勝が亡くなってから、424年と183日が経過しました。(155049日)