大谷光尊(おおたにこうそん)
浄土真宗僧侶、西本願寺21世[日本]
1903年 1月18日 死去享年54歳
大谷 光尊(おおたに こうそん、嘉永3年2月4日(1850年3月7日)- 明治36年(1903年)1月18日)は、幕末から明治時代前期までの浄土真宗の僧侶。
西本願寺21世門主。
父は西本願寺20世広如。
伯爵。
諱は光尊。
法名は明如。
院号は信知院。
裏方は徳如(光威)長女、枝子(しげこ:大谷光勝養女)。
実子に大谷光瑞(鏡如)、大谷光明(浄如)、大谷尊由、九条武子、真宗木辺派錦織寺を継いだ木辺孝慈などがいる。
経歴=
西本願寺20世広如の第5子・峩として生まれる。
初め広如には4男1女があったが全て早世したため、河内顕証寺から迎えた徳如(光威)を新門跡と定め、明如自身は徳如の養子として新々門となる。
しかし、1868年(明治元年)には徳如もまた死去したため、新門跡となった経緯がある。
1872年(明治4年)、広如の死去により本願寺21世法主を継職。
以降、明治維新の大変革の時代にあって、青年法主として近代教団の制度改革を次々とすすめた。
江戸時代の本末制度に代わる教団独自の宗制・寺法などを定め、本願寺を頂点とする真宗教団の引き締めを行う一方、いち早く側近や有望な若手僧侶らを海外留学させて(1875年、島地黙雷、赤松連城をヨーロッパに派遣)、宗門の近代化に努めた。
、西洋文明に対抗しうる宗教教団のありかたを切り開いた。
これらの成果は明治政府に先行した日本初の議会(宗会)開設や、後の22世大谷光瑞の宗政に引き継がれた。
1876年 ……
大谷光尊が亡くなってから、121年と308日が経過しました。(44503日)