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青木一重(あおきかずしげ)

戦国武将、摂津麻田藩初代藩主[日本]

(寛永5年8月9日没)

1628年 9月6日 死去享年78歳

青木一重 - ウィキペディアより引用

青木 一重(あおき かずしげ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。
摂津国麻田藩初代藩主。
諱は重通ともいう。
通称は所右衛門尉、民部少輔。
官位は従五位下民部少輔。
略歴[編集] 天文20年(1551年)、青木重直の長男として美濃国で生まれた。
青木氏は美濃の豪族で、土岐氏、斎藤氏に仕えていたが、経緯は不明だが、一重は父・重直の下を離れて、初め駿河の今川氏真に仕えた。
新坂(にいさか)の戦いで、敵と槍合わせをして組討って首級を挙げ、褒美に黄金を受け取った。
永禄11年(1568年)の今川氏滅亡の際の駿河侵攻で、武田・徳川軍との交戦で負傷して、遠江国掛川に蟄居した。
元亀元年(1570年)、徳川家康に召されて仕えることになり、6月の姉川の戦いでは、朝倉家の武将・真柄直隆の子・隆基(十郎)を討ち取るという武功を挙げて勇名を轟かせ、褒美に脇差を賜った。
元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦いでは、本多太郎左衛門と共に増援に派遣された高天神城で守備にあたっていた。
三方ヶ原では弟・重経が武田勢を食い止めるために戦って討ち死にしている。
同年、徳川家のもとを出奔し、父・重直が仕えていた織田信長の重臣である丹羽長秀のもとに任官した。
丹羽家の家臣として、天正10年(1582年)の山崎の戦い、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いなどに参加したが、天正13年(1585年)に長秀が死去すると、羽柴秀吉に仕え、使番となり、後に黄母 ……

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青木一重が亡くなってから、395年と321日が経過しました。(144595日)