福原越後(ふくはらえちご)
長州藩士・家老[日本]
(諱・元僴、元治元年11月12日没)
1864年 12月10日 死去自害享年50歳
福原 元僴(ふくばら もとたけ)は、江戸時代末期(幕末期)の長州藩の永代家老。
通称は越後で、福原越後として知られる。
長州藩支藩である周防徳山藩主毛利広鎮の六男で、最後の長州藩主となる毛利元徳の実兄である。
生涯=
文化12年(1815年)8月28日生まれ。
六男であるために家督を継ぐことはできず、文政9年(1826年)に長州藩寄組・佐世親長(益田就恭の実弟)の養子となる。
初めは勝定と称したが、嘉永7年(1854年)に藩主・毛利斉元(在任:1824年 - 1836年)から偏諱を受けて元僴と改名した。
嘉永4年(1851年)、家老に昇進するが、大名の子の養子先としては家格が低すぎることから、安政5年(1858年)に藩命で長州藩で代々家老職を継ぐ家柄の福原親俊(伯父・福原房純の孫)の家督を継承した。
万延元年(1860年)に国家老として藩主・毛利慶親(斉元の子、後の敬親)を補佐し、尊王攘夷運動を推進する。
文久3年(1863年)に廃止された最後の当職(財務を統括する家老職)を務めており、当職廃止後も加判役として藩政の中枢に残った。
後述の長州軍上洛に至る政務において、どのような権限を持ち政務を行ったかは定かでは無いものの、在職期間から考えて、航海遠略策の進言・藩是転換(奉勅攘夷・破約攘夷の提案・実行)などの政策で責任者のひとりであった可能性が高い。
同年、八月十八日の政変で長州藩が京都から追放されると、元治元年(1864年)に来島又兵衛や久坂玄 ……
福原越後が亡くなってから、159年と345日が経過しました。(58420日)