益田親施(ますだちかのぶ)
長州藩士[日本]
(通称・右衛門介、元治元年11月11日没)
1864年 12月9日 死去切腹享年32歳
益田 親施(ますだ ちかのぶ)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩士。
益田家第33代当主。
長州藩永代家老・須佐領主益田家14代。
益田元宣の三男。
通称は右衛門介(うえもんのすけ)。
諱は初め兼施(かねのぶ)、後に長州藩主毛利敬親より偏諱の授与を受けて親施と名乗る。
生涯=
天保4年(1833年)9月2日、益田元宣の三男として生まれる。
母は益田房清の娘・孝子。
嘉永2年(1849年)、父・元宣が死去し、兄の親興(ちかおき)も既に亡くなっていたため、家督を継いだ。
同年、吉田松陰の山鹿流兵学に入門。
嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリーが浦賀に来航すると、浦賀総奉行として着任する。
安政3年(1856年)には長州藩の国家老となった。
安政5年(1858年)、通商条約問題が起こると、益田は周布政之助らと共に朝廷の意思に従って攘夷を決行すべきと江戸幕府に提言し、「朝廷に対しては忠節、幕府に対しては信義、祖先には孝道」という藩の三大原則を打ち出した。
文久3年(1863年)には上洛して孝明天皇に謁見し、真木保臣らと共に過激な尊皇攘夷に走ろうとした。
しかし同年の八月十八日の政変で長州をはじめとする尊皇攘夷派が京都から追放されると、益田は七卿落ちで朝廷から追放された7人の公卿と共に長州に帰国した。
その後、失った勢力を取り戻すため、翌元治元年(1864年)に上洛、福原元僴、国司親相、久坂玄瑞や来島又兵衛らと共に出陣 ……
益田親施が亡くなってから、159年と307日が経過しました。(58382日)